情報の偏食
隣の家のペットが子供を生んだというニュースから、どこかの国で市民が何百人と虐殺されたというニュースまで、情報は日々この世に溢れている。
その多種多様なニュースの価値を決めるのは個人の主観であり、ペットの子供を心待ちにしていた者にとっては隣家の子犬誕生のニュースは一線級の情報であり、日頃難民問題に関心を示しているものならば後者のニュースを聞けば胸を痛めるだろう。
情報の一次ソースに触れられるものは極めて少ない。
ごく一部の者達だけの中で処理され公にならない情報は多い。
あるいは公にする意味を成さない瑣末な情報も同様に多い。
その中で公に知らしめる役割を担っているのがマスコミであり同時に情報の取捨選択も行っている。
それは仕方のないことである。無限とも言える情報の中でそれらすべて伝えることは物理的に不可能だからだ。とは言っても取捨選択された情報だけでその数は膨大であり個人がその全てに目を通し消費するのもまた不可能である。
この物理的限界の元、我々は日々流れてくる情報を無意識にそして無自覚に選択し消費している。
情報の取得の仕方は時代とともに変化している。
200年前の江戸時代ならば情報源はかわら版であり口伝である。
口伝で伝わる情報は、もはや一次ソースの新鮮さは完全に失われ真偽さえも危うくなっているのは想像に難くない。
戦後新聞が情報源の主を担っていたがそれにテレビが加わることで消費者の選択は増えた。
さらに時代が下りインターネットが普及すると新聞やテレビは旧時代のメディアとされ、ある種冷めた目で見られているのが実情である。
テレビや新聞はその性質上、消費者は完全に受け身であり、流れてくる情報を選択することはできない。
ところがネットは違う。自分から求めている情報へアクセスできる。そのことが良いこととされ旧態依然とした過去のメディアを批判する根拠となっている。
前述したように日々流れてくる情報は膨大だ。そしてそのニュースの価値を決めるのは個人の主観であるのは間違いない。
自分の興味ある情報だけを摂取し続けることで満足してはいるが、それは食わず嫌いの偏食家になりはしないか。
旧メディアの代表である新聞やテレビは膨大な情報の中からニュースバリューの高いものを伝えてくれている。
そのことに個人的価値を見い出せなかったとしても、世の中で起きている出来事の中で優先順位の高いものに触れることができる。
近年、新聞も読まずテレビも見ず情報収集をネットのみに頼っている若者を見かけることがある。
話をしてみると驚くほどに社会情勢に疎かったりする。それは情報の取捨選択を自分の主観だけに頼っているからだ。
自分の趣味嗜好に合わなくとも、できる限り幅広く情報に触れることで視野が拡がることもある。閉じた世界の中だけに引きこもることで居心地は良いかもしれないが外へと繋がる扉を見つけることはできない。
前時代の旧メディアと揶揄されてはいるものの未だにそのニュースソースの信頼性はネット上で出回る出所不明の情報とは雲泥の差がある。
『ネットで真実』とはよく聞くが冗談半分で楽しむ分には問題ないが、これを真に受けてしまう者もやはりネット上には多く見受けられる。
ツイッターはそんな連中の展示場のようなところがある。
一つ例を上げる。『放射脳』と呼ばれるクラスタに属する者達だ。
自分の考えに賛同する者だけでグループを作り、出処不明の胡散臭い情報を共有し合う。同種の人間が自分以外にもたくさんいるという安心感を得るために更にのめり込み、都合の悪い情報は『マスコミの嘘』とレッテルを貼って見てみないふりをする。
そうやって思考はどんどんと内側に向かい自分と意見が違うものを敵と認識して攻撃する。
本人にとってそれは正義であり真実だと思い込んでいるから質が悪い。
良識ある一般人は距離を置いて冷笑しているがそれに気づく事は無い。
使い方を間違えなければネットはとても便利である。しかしその性質上、個人が取得する情報が著しく偏ることになるが、それを充分理解した上で視野狭窄に陥ること無く注意してもらいたいと切に願う。
0 件のコメント:
コメントを投稿